『建築の日本』展
『建築の日本』展
会う人会う人「行った?」と訊いてくるので、面倒だが行くことにした。行くことにしたら、その日に北海道で大地震のニュース。全道停電。電力会社が一極集中的・専売的に電力を売っているからこんなことになるのだろう。ああ、高層ビルに上るのは気が引ける。空中美術館行きのエレベーターに乗って「最悪の事態」を考えたりする。普段高層マンションに住んでいる人たち、高層ビルで働いている人たち、精神に破綻を来さないのだろうか?などとパニック寸前で53階に到着。到着しても落着かないことはなはだし。なんでこんな場所に美術館なのか。もはや美術館には建築的外観・体裁が不要になっているということでもあろう。
磯崎新・空中都市の木の模型が入口近くに展示されている。展示台が低いので小さく感じる。行列に並んで原寸の待庵に入り、1/3の丹下健三邸模型をながめ、法隆寺中門や東大寺南大門などの雛形を拝見。
磯崎新が自身の展覧会を企画した時に、担当者として関わった。まだ「建築展」が日本で一般的ではなかった時期である(1990年)。2次元(HDの映像、スケッチ、シルクスクリーン)と3次元(木の模型)の素材を、30の作品について同じフォーマットで並べることにした。それに加え茶室の現物展示。(その茶室「有時庵」は展覧会後一旦解体され、同じ材料を用いて実物の茶室として品川に建てられた。)それが建築家の展覧会の規範となる展示方法だと自負していたし、以降、ボクにとってすべての建築展は「磯崎展」を原点とする座標によって評価されることになる。その展覧会『Arata Isozaki Architecture 1960-1990』は、1人の求心力のある建築家が、存命中に自分のディレクションで回顧展を企画・制作し、これが建築展の決定版だ(どうだ!)という力技だった。これはいわば、磯崎新が後世の建築展にかけた呪いでもあった。
その後、徐々に「建築展」という展覧会のあり方が一般化されるにつれ、個人の回顧展のみならず、様々なテーマで建築展が企画され開催されるようになる。最近では、去年近美でやっていた『日本の家』もそうだし、今回の『建築の日本展』もそのひとつ。借りてくる資料はフォーマットを決めるわけにもいかないので一見雑然とした展示にも見えるが、実はその方がダイナミックだったりする。多様な作品に内在する力が個別に制御不能のまま湧出しているからだ。磯崎新の時代、巨匠という言い方がまだ有り得た時代の巨匠建築家の回顧展と、多様なテーマを扱う幕の内弁当的な展覧会が違うのはあたりまえのことだ。この雑然とした展示は、建築文化が全ての人に開いている共有の財産であることを感じさせてくれる。
さて、コンピューターの世界で何がおこっているのか詳しい人に話を聞くと、いつも話が止まらなくなるので、聞き続けるのが面倒でなかなかその世界の全貌が見えないのだが、その断片から素人的に大雑把な理解をすると、スーツの連中が動かしていたIBMの中央集権的なシステムから、ジーパンを履いた連中が考えたUNIX系(Macなど)の離散・分散型のシステムへの移行が70年代に起った、ということのようだ。コンピューターの世界は開放に向かって動き始めた、という理解。コンピューター/ネットワークによってもたらされる情報はライフラインである、空気と同じように全人類に等しく開放されていなければならない、という姿勢によってもたらされたシステムの変化である。一旦全ての情報を中央に集めて、それを後からチビチビ分配するIBM的やり方はもう旧い、ということになっているのである。コンピューターの短い歴史の中では、起るべき大きな転回が既に起ったということだ。情報は誰かが支配するべきものではない、ということに世界が合意したということなのだろう。
この変化は、建築の世界にも起きている。その時代の文化と歴史を全て背負ったような近代の巨匠建築家が支配する一極集中中央集権的建築思考の時代は終わり、建築思考の多様性を、複数の建築家/非建築家が軽やかに着実に実現していく時代。この展示にも開放/自由が通底している。監修の建築史家・藤森照信が前世代の巨匠に突付けた最後通告でもある。
2018年9月8日土曜日