太宰2

 


三鷹に移り住んだ太宰も「松本訓導殉難碑」を見ていた。小説『乞食学生』の中で、一人称の主人公が玉川上水に流れゆく桜の花びらを追いかけてせっせと歩く姿を描写している。


「万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。私は、少し疲れた。花びらを追う事を、あきらめて、ゆっくり歩いた。たちまち一群の花びらは、流れて遠のき、きらと陽に白く小さく光って見えなくなった。」


「ほたる橋」と「幸橋」の間には「牟礼用水分水口」がある。鬱蒼とした木々に覆われているが、看板があったので気づいた。玉川上水の水を牟礼地域の田んぼ用に供給するために作られた用水路の取水口、1745年に開削許可が出たという。分水口だけではなく、玉川上水本流側には堰が設けられていて、牟礼用水への流入量を調整していたようだ。昭和30年代までは使われていた。看板を見ても堰がいつ頃出来たのか分からなかったが、現存するコンクリートのようなものかどうかはさておき、水量調整用の堰は何らかあっただろう。とすると、太宰と山﨑富榮は人喰い川に飲み込まれ、堰をも越えるような勢いで流されたということになる。相当な水量だったのだろう。発見されたとき、二人の体は赤い紐で結ばれていたと言う。

 

2017年7月12日水曜日

 
 

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