三鷹事件
三鷹事件
亡父の残したバースデーノートには、知人の誕生日の他、その日に起きた出来事が様々メモされていて、今日のページを偶々眺めたら「昭30(1955)三鷹事件死刑判決」と走り書きが残されていた。今は三鷹に住んでいるのでなんとは無しに事件を身近に感じ、調べてみることにした。情報源はネットのみ。
三鷹事件は1949年夏に、連合軍占領下の日本(1945-1952)において立続けに起った「国鉄三大ミステリー事件」(下山事件7/6、三鷹事件7/15、松川事件8/17)のひとつ。そして1955年6月22日は、三鷹事件の犯人とされた竹内景助氏に、最高裁が死刑判決を下した日。なぜ父が6/22を特にメモしたのか。ネットの情報を読み進むうち、おぼろげながらその理由が見えてきた。
(以下引用)
日本労働年鑑 第24集 1952年版 から
第二部 労働運動
第四編 その他の社会運動
第四章 法廷闘争
第五節 刑事事件
一、三鷹事件 1949年7月15日午後9時すぎ、当時行政整理反対闘争にわきかえっていた国鉄三鷹電車区構内で停車中の7輌連結の一編成電車が脱線し、電車が破壊した他6名の者が死んだ事件が起った。検察当局は7月、8月、9月にかけて国鉄労組、共産党関係の飯田七三他9名を電車顛覆致死で起訴した。
この事件は激しい階級闘争のさなかに起った事件であり、検察当局はこれを共産党員の犯行となし、新聞放送機関もあげてその方向に宣伝したので、公判闘争も70人もの弁護人が参加した大闘争となり、49年11月4日第一回公判以来、50年7月14日まで59回にわたって多くの傍聴人がつめかけた歴史的公判となった.50年6月12日、第50回公判では検事が竹内・飯田・喜屋武被告に対し死刑、外山・横谷被告に無期、清水・田代被告に懲役15年、伊藤被告に同12年、宮原・先崎被告に同八年、偽証罪の石川・金被告に2年並びに3年の求刑を行い、本件は共産党の暴力革命の一環をなすものと断じた。弁護人は冒頭より終始被告全員の無実を主張して綿密な立証を続け、共産党弾圧のためのでっちあげ事件であると弁論した。
判決は50年8月2日に言渡され、検事の訴追が全くあやまったものであることを明らかにした。すなわち被告竹内を無期懲役に処し、他の被告8名並びに偽証罪の2名については無罪を言いわたした。
(以下wikipediaから)
弁護人は、無罪の主張とは別に、被告人の顔も見ぬまま死刑に変更することの非道も訴えて、最高裁判所に上告したが、最高裁では口頭弁論も開かれないまま、1955年(昭和30年)6月22日に死刑判決が確定した。ところが、これが8対7の1票差であったため物議を醸した(以後の最高裁の死刑上告審理では口頭弁論を開くことが慣例となった)。竹内は死刑判決後も、文藝春秋誌に陰謀説を訴える投稿をするなど無実を訴え続けたが、1967年(昭和42年)、脳腫瘍のため45歳で獄死した。
竹内の供述は無実、単独犯、複数犯など様々な変遷を重ね、最高裁まで7回変更となった。竹内が単独犯を認める供述をしていたのは、共産党系の弁護士から「大した刑にもならないし、単独犯として罪を認めて他の共産党員を助ければ、出所後に共産党で高い地位に付けられる」旨のことを言われて、共産党員ではなかったが共産党シンパだった竹内がそれを受け入れたためといわれている。
事件については、マスター・コントローラーを針金で開錠出来るのか否かという問題、デッドマン装置を片手だけで紙紐によって固定したとされているが可能なのかという問題、速度固定のために使われていた紙紐がコイル巻きになっていたが竹内に結べるのかという問題、事件発生当時に停電中の暗闇の中で事件現場近くを歩く竹内を目撃したとする後輩の証言の信憑性、前述の犯行時間とされた時間帯に元同僚と風呂に入っていた証言などのアリバイ、解雇されたことへの反発とする動機について、竹内自身は「人員整理を受け入れて、退職金を受け取ることを決め、労働運動から降りていた」ことなど、様々な証拠について検証・整理した書籍が出されている。
2011年(平成23年)11月10日、竹内の長男が、2回目の再審請求を申し立てた。
その他
1949年(昭和24年)7月15日に三鷹駅で大事件が起きるという噂が警察関係で語られていたとの指摘が存在する。暴走電車によって大破した三鷹駅前の交番には4人の警察官が勤務していたが、事件時は交番を留守にしていたため4人全員が助かっていたことなどが傍証としてあげられている。
竹内は死刑判決後、拘置所内で脳腫瘍に伴う激しい頭痛を訴えていたが、拘置所側は拘禁症状であるとしてこれを無視し、一切適切な治療等を行わなかった。死後、国は竹内の遺族に慰謝料を支払っている。
2017年6月22日木曜日