Seoul 4

 


20170102 小心者なので、年末のコンサートに来ていた石山修武さんの日記が気になった。石山さんは、手書き原稿をスキャンしてネットに載せるという、新しいんだか古いんだか、にわかには判断できない方法で日記をHPにアップしている。既製の価値観に対する揺さぶりは、彼の設計する建築とも通じるところがある。恐いもの見たさでHPを覗いてみた。


富田さんの演奏を聞きながら彼が描いていたと思われるスケッチがあった。さらに文章も。ヘッポコ伴奏を聞いての石山さんの感想は「大野は『夕日のガンマン』に出てくる超悪役に似てる」との有難いお言葉。本腰で聴かれても困ったことになったので少しホッとした。石山さんは、聞こえることよりも見えることに興味が向いていらっしゃるのだろう。当然だが、建築家にはこの傾向を持つ人が多い。視覚中心主義。


視覚、聴覚のことを考えるとクセナキスのことを連想してしまう。戦中から戦後にかけてギリシャで反ナチス、反政府のレジスタントとして活動していた時に銃撃で片側の視覚/聴覚を失い、にもかかわらず数学・建築・音楽を学び、コルビュジエの元で建築家としてモデュロールを発案し、それをまとめる中心的な働きをした。ラトゥーレット修道院やチャンディガールの計画、ブリュッセル万博のフィリップス館など、彼の関わった建築作品は名作揃いである。さらに、数学理論を応用した作曲方法は、「ジョン・ケージの影響を受けなかった唯一人の作曲家」(一柳慧)として、音楽の新しい地平を切り開いたと高く評価されている。ボク自身は彼の曲自体に、それほど共感を持っているわけではないし、演奏が桁外れに困難で、演奏される機会が極めて少ないこともあり、彼の曲に親しんでいるわけではない。ただ、視覚/聴覚を失いながら、建築/音楽の領域で重要な仕事を成し遂げたその生き方には敬意を表さざるを得ない。


既製の価値観を揺さぶること。クセナキスはレジスタント活動に始まり、建築設計、作曲に至るまで、生き方が一貫していたのだろう。


昼食は、タッカンマリの店へ。いつもは行列が出来ている人気の店らしいが、鳥インフルエンザの後なので空いている。ラッキー。そば粉を使ったチヂミとタッカンマリのセットを注文。山盛りのタッカンマリが載った大皿が、土鍋の蓋のようになって出て来た。箸で肉をつまむとほろりと骨から外れる。土鍋の中にはおこげご飯(ヌルンジ)。これ一体何人分なの?という量を無言で食べ進む。酉年だけど、当分鳥はいいかな。

 

2017年1月2日月曜日

 
 

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