石山修武・六角鬼丈 二人展

 


年末に「ときの忘れもの」のギャラリーコンサートでお目にかかった石山修武さんから、恐れ多くも直々に案内状を送っていただいた。しおらしくも「いらして下さい」などと書いてある。しおらしさとは裏腹に、行かないとエラい事になるのは火を見るより明らかなので、オープニングパーティーにアリバイづくりに出かけることにした。銀座ギャラリーせいほう。


建築の展覧会ではなく、アートの展覧会だという。六角さんは主に建築家的作品を展示している。刷師・石田了一の手になるシルクスクリーンに、建築模型のような家具。抑制が効き、気品が漂う。対照的に石山さんの作品群は、にわかに建築家のものとは思えないブルータルなアートだった。銅版画連作に水彩画。木や金属を使ったオブジェ。「二人展」を開くには、こういう対照的な組合せがいい。


石山さんの『やがて異形の者も出現する』と名付けられた銅版画を眺めていたら、作者御本人が「いいだろう」と言いながら背後から近づいてきた。最近口髭を生やしてる石山さんは「異形の人」度鰻上りだが、そんなことを言うと殴られそうだ。「移動がテーマなんですか?」と当たり障りのないことを訊くと「それを旅ともいう」と仰る。この連作は「原・人間」が二足歩行で旅を始めた後、手と頭で考えはじめたことをテーマにしているようにも見受けられるが、これらを拝見し連想したのは、出エジプトのユダヤ人。モーセに率いられてエジプトを脱出し、乳と蜜の流れる地を目指して放浪生活を強いられる彼らの40年を想起させられた。石山さんの銅版画連作は、聖書の挿絵としても成立するかも知れない。


銅版画は活版印刷術とセットで広まった。そして活版印刷は聖書を印刷するための技術であった。そしてそのことが宗教改革の原動力になった。銅版画は、その起源から聖書の挿絵用の技法だった。今年はグーテンベルグの聖書から562年、宗教改革から500年である。今では銅版画が単独の作品として堂々と一人歩きしているように見えるが、物事の根源を指向する銅版画家が聖書を彫らずしてなにを彫るというのだろう。こんなことを言ってると異形の人に殴られそうだ。


二人のエネルギーが充満するギャラリーを後にして、新橋に向かう。

 

2017年1月10日火曜日

 
 

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