聖書朗読

 


聖書には涙なくしては読めない場面がいくつもあるが、その双璧が下記2カ所。


・ダビデ王が、叛乱を起こし父親である自分に剣を向けた息子アブサロムの死を知る場面。自分に叛旗を翻したにも拘らず、息子の戦死を知り周囲をはばからず慟哭する。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」(サムエル下17-19章)


・父の溺愛を妬まれ兄弟たちに捨てられたヤコブの息子ヨセフがエジプトに売られ、苦渋を味わった末、ファラオの夢を解き明かし、宰相としてファラオに次ぐ地位に上り詰める。飢饉が始まり食料が無くなったヤコブの息子たちが、末の弟ベニヤミンを父ヤコブと故郷に残してエジプトに食料乞いに来た時、最初はエジプトの宰相が弟のヤコブと気づかなかった兄たちの前で、同腹の弟ベニヤミンに会いたいがために狡智を働かせ、父ヤコブのもとにいたベニヤミンをエジプトに来させることに成功する。さらに罠を仕掛けてベニヤミンを自分のもとに居続けさせようとするが、兄ユダの真摯な弁明を聞き「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。」(創世記37-45章)


日曜の礼拝では、月一度くらいのペースで司式者として聖書の朗読をする。28日は創世記の45章。まずい、、、


広島で被爆体験記の朗読を聴いた時にも気づかされた事だが、朗読は魂をわしづかみにして揺さぶる力を持っている。冷静に目で追う黙読とは本質的に異なる行為だ。創世記45章は聖書全体の中でも朗読の最難関箇所だろうと前から感じていた。創世記45章と争う音読最難関箇所の双璧はサムエル記下19章「息子アブサロム戦死の報を聞いて慟哭するダビデ」だと思うがこちらは既に日曜学校で撃沈している。涙をこらえ胸がつかえて読めなくなり子供たちに驚かれると云うありさま。それをまた繰り返すわけにはいかないので、その箇所を何度も朗読し慣れる事によって乗り切ろうと思った。



何とか乗り切れた、、、


今回の朗読は「いきなりクライマックス」の箇所だったので乗り切れたのかも知れない。この箇所に向かうヨセフのストーリーを全て朗読で乗り切るにはもう少し訓練が必要だろう。聖書の朗読は手強い。ヘブライ語原文では「ヨセフは全てを注ぎ込んで泣いた」という書き方になっているらしい。読み手も、全てを注ぎ込んで聖書に対峙する姿勢が求められると言う事か。

 

2016年8月28日日曜日

 
 

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