広島 1-3

 


午後は村野藤吾詣で、平和記念聖堂に行く。カトリック的な伝統に従い、装飾的要素がそこかしこにちりばめられている。床には「信」「希」「愛」の金属プレートが象眼され、側廊の窓はステンドグラス、正面祭壇壁面には金色の光の帯を斜めに纏うキリストの像、高窓の雲形窓は和風の意匠、等々。玄関のブロンズ大扉はドイツからの寄進だそうだ。単純な骨組みに部分部分に装飾的要素が組み込まれているのは、敗戦時の資金難で竣工当時にはろくな仕上が出来ないのを見越し、パーツパーツを後から付加し易くしたのではないか。学者じゃないので根拠無く勝手なことを想像出来る。


師匠AIは村野藤吾の作風を称して「田舎芸者の厚化粧」などと揶揄しているが、きめの細かい設計が出来ないコルビュジェ派の遠吠えとも聞こえる。


この建物も平和記念公園と同様コンペ(1948年)だったのだが、コンペ結果は1等該当無し、2等に井上典一と丹下健三、3等に前川國男、菊竹請訓他、以下佳作、準佳作がぞろぞろ、当時のコンペとしては破格の賞金総額29万円を1等無しで応募者に振り分ける必要に迫られて、受賞人数が増えてしまったらしい。


そして、その後の展開が凄い。審査員だった村野藤吾が設計者になっちゃったのだ。しかも同じく審査員だった今井兼次を設計顧問として迎えている。コンペのいざこざは昔からあったのだ。ザハを排除して審査委員長の安藤忠雄が設計しちゃった、みたいな展開である。コルビュジェ派(=丹下・東大閥)を排除して表現主義(=村野・早稲田閥)を引き上げた形とも見える。


建物の壁にいくつか碑文が埋め込まれている。偶然見たものに次の一文が刻み込まれていた。


You are asked to remember in your prayers.

The intention of all the benefactor of the Memorial Cathedral for World Peace especially of Thomas A Bradley and to pray for Tohgo Murano.

 

2016年5月2日月曜日

 
 

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