ときの忘れもの・拾遺
ときの忘れもの・拾遺
第4回ギャラリーコンサートに寄せて
4回シリーズ最終回のコンサートで演奏する曲目が決まり、チェリストの富田牧子さんから曲名一覧を送っていただきました。それらをじっと眺めていると、作曲家がどんな思いで曲名を付けているのか気になりはじめます。
バッハ
無伴奏チェロ組曲第2番二短調(BWV1008)
クルターク
メッセージ −クリスチャン・ズッターへの慰め
ピリンスキー・ヤーノシュ「ジェラール・ド・ネルヴァル」
民謡風に
ヴィルハイム・フェレンツを悼んで
バラトンボグラールの思い出〜シェルター・ユディットの誕生日に
ブルム・タマーシュの思い出に
アンチェル・ジェルジュの思い出に
ソクラテスの別れ
バッハの場合、本人がこの曲をどう名付け、どう呼んでいたか寡聞にして知りませんが、1950年になってバッハ作品目録(Bach-Werke-Verzeichnis)という整理番号が付けられて「BWV1008〜 あぁ、チェロのあれね」などとバッハオタクの方々は、訳知り顔で言えるようになっています。歴史に残る作曲家の曲だからこそですが、作曲から200年経ち、単なる記号と数字が曲そのものを喚起させるスイッチとして機能しているのです。
対照的に、我らと同時代のクルターク翁が付ける曲名の、なんと文学的なことでしょうか。曲の核心が名前に込められているように感じ、未知の曲に対する興味をそそられます。大バッハとクルターク翁の曲名に見られる違いは、整理番号を許容する歴史性に対し、生まれたばかりでまだ評価の定まっていない現代曲との違いかもしれません。クルタークはその辺りのことを感じて、新しく生まれる曲の命名に心砕いたのかと思うと、これらの曲がいとおしく感じられます。
ふと町名のことを連想してしまいました。整理番号的住居表示、例えば六本木6丁目。ヒルズと称するあの地域が、かつて材木町や日ケ窪町といった様々な連想を引き起こす響きの町名だったこと、また今は大久保だけに残っている百人町と云う名は、青山や市ヶ谷にも存在したこと。土地の特性や歴史を地名に盛り込んだ先人の思いは、クルターク翁が曲に名前を付けた時の思いと相通じるものがあるように感じます。
『ときの忘れもの』が関わっていらっしゃる現代美術の世界も、作品名には様々なタイプがあります。整理番号的に無機質なものもあれば、説明的なものもある。また、作品名が無いと作品そのものが無意味になるようなもの、あるいは作品内容を補完しているような気合いの入ったタイトルも珍しくありません。現代美術の場合「無題」などという一見素っ気ないものも含め、作者が付けた作品名に何らかの意図を深読みするのも、鑑賞の楽しみの一つです。
未知の曲を聴く演奏会では、曲名から受ける気分をあらかじめ空想し、実際に聴いた印象との合致、あるいはズレを感じるという楽しみ方もあるでしょう。そして喜ばしいことに、私を含むほとんどの方々にとって、今回選ばれたクルタークの曲は未知の曲です。
2016年12月4日日曜日