田中正造

 


「Birthday Book」というボロボロのノートを父が遺していて、誕生日だけでなくそれぞれの日付の欄に気になる出来事をメモしている。10月23日の欄には「1901年、田中正造議員辞職」とあった。足尾鉱毒事件の田中正造である。


「今日の質問は、亡國に至つて居る、我日本が亡國に至つて居る、政府があると思ふと違ふのである、國があると思ふと違ふのである、國家があると思ふと違ふのである、是が政府にわからなければ則ち亡國に至つた。之を知らずに居る人、己の愚を知れば則ち愚にあらず、己の愚なることを知らなければ是が眞の愚である。民を殺すは國家を殺すなり、法を蔑にするは國家を蔑にするなり、人が自ら國を殺すのである。財用を紊つて、民を殺して、法を亂して亡びないと云ふものは、私未だ曾て聞かないのでございます。」(田中正造「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問」1900年2月17日@衆議院)


鉱毒事件の陳情のため東京に向かった農民と衝突した300人の警官隊が発した言葉が「ドンビャクショー」。沖縄・高江の「ドジン」と重なる。人を侮蔑する単語を権力が人民に投げつける状況は、100年以上経っても変わっていない。権力者はエラく、人民は無条件に従うべきだと云う「オカミ」の構造。明治以降戦前まで「オカミ」は公権力としての天皇をさす言葉として、戦後は政府機関や省庁をさす言葉として生き残っている。戦後、民主主義色に染められた新しい国の上着を纏っているふりをしているが、衣の下にある「オカミ」主義の本質は変わっていない。しかも、今や田中正造不在の権力である。


自信のないもの/自信過剰なものが、自分をカミのように高めて、人を見下す「オカミ」の構造は、時間的にも空間的にも普く遍在する。一神教はその構造にいち早く警鐘を鳴らした。モーセの十戒、第一戒は「あなたは私の他になにものをも神としてはならない」。唯一神と人との一対一、垂直の関係には、他のものを崇める余地はない。その垂直の関係に対し、人対人は水平の関係である。誰を卑下することもできず、誰を崇める必要もない。このことは、他人との差別化を謀ろうとする発想から大きく外れるのかもしれないが、その信仰が、人間を野性の状態から辛うじて理性的存在に踏みとどまらせているとはいえないか。


神無き時代、放し飼いの幼稚な独裁者に率いられ、野性状態の国はどこに向かおうとしているのだろう。

 

2016年10月23日日曜日

 
 

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