悲愴

 


昼に近い午前中、電車の中でたまたま隣に座った美女(推定年齢20歳)が音楽のスコアを読み始めた。目の前にちらつくスコアを目で追っかけてみたら、何とチャイコの「悲愴」ではないか。誕生日をカラヤン/ウィーンフィルの「悲愴」で祝った直後のことであったので、これは只ならぬ出会いが待っているんじゃないかと思わざるを得ない。この大きさの鞄に入っているのはフルートだろうか。「悲愴」の旋律を脳内ローテーションしていたら、美女は途中で下車してしまった。「悲愴」とはこういう意味だったのか知らん。


夜は「死と再生」と題する淡野弓子(メゾソプラノ)武久源造(ピアノ)のリサイタル。バロックどっぷりのこの二人がロマン派でタッグを組むというのも面白い。


Gustav MAHLER《KINDER-TOTENLIEDER》

Robert SCHUMANN《KINDERSZENEN op.15》Piano solo

Robert SCHUMANN 《LIEDERKREIS op-39》

R.クイルター《フクシアの木》

G.武久《けっして けっして》


濃い音楽だった。詩の内容だけでなく、聴き流せないようなごつごつした触覚の音が、ゆったりしかし力強く流れる。どちら向きに流れていたのだろうか。聴く我々はその流れに巻き込まれて溺れそうになりながら、自分の知らない遠くにつれて来られる。


マーラーの「子供の死の歌」は子供2人を立続けに失ったリュッケルトの詩によるが、マーラー自身もこの歌の作曲から4年後に長女を失っている。


「私は自身を、私の子供が死んだと想定して書いたのだ。もし私が本当に私の娘を失ったあとであったなら、私はこれらの歌を書けたはずがない」(アドラーに向けて書いたマーラーの手紙から)

 

2016年10月1日土曜日

 
 

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