シナンのモスク、バッハのミサ曲
シナンのモスク、バッハのミサ曲
寝ぼけまなこで朝刊を手にした途端、アドレナリンが噴出して怒りがこみ上げてくる。国会議事堂前に行って大声に包まれてみたものの、怒りは納まるどころか更に増幅するから困る。以下の二つの体験は怒りを収める手掛かりになりうるか、どうか。
スレイマニエ・モスク@イスタンブール
オスマン帝国第10代皇帝・スレイマン大帝(スレイマンというのはイスラエル王・ソロモンのアラビア語型のトルコ語発音)の命により、建築家・シナンの設計で建立されたモスク複合施設。恍惚ともいえる充足感に満たされた。何故か。この建築が、狭義のデザインやコンセプトなど人の小さな意志のみでつくられたものではなく、数学と物理学という天与の法則に可能な限り従って構築されたものだからだろう。シュッツやバッハの音楽に通ずる何かがある。激しい感動に声が出なくなった。何か書くほどに大事な記憶がこぼれ落ちてしまう気がするので、このくらいに。今まで意識してシナンの建築に注目することは無かったのが悔やまれる。
ガラタ橋を渡り、金角湾の対岸からイスタンブール旧市街を見渡すと、スレイマニエ・モスクの一帯は鉛で葺かれた大小無数のドームが連なり、大地そのものが隆起したかのように見える。建築というより自然の風景に近い。その複合施設の一角にシナン自身の墓所があった。(写真)道路が鋭角に交わる交差点に面した扇形の小さな敷地に納まる墓で、交差点に面した扇の要にあたる部分に設けられた正8角形平面の小さなパーゴラには、道行く人が自由に使える水道が備えられている。墓に限らず、16世紀にシナンが計画した複合施設は今も現役の食堂や浴場として機能し続けていて、その一角にある食堂でピクルスの利いたハンバーガーを食べてみた。美味くはないが、味は忘れられない。
スレイマンはイスラエルの絶頂期を築いたソロモン(もちろんユダヤ教徒)に憧れた。シナンはアナトリア地方出身のキリスト教徒だったが、イエニチェリとしてイスタンブールに連れてこられ、ムスリムに改宗して建築家となった経歴を持つ。
J.S.バッハ、ロ短調ミサ曲@紀尾井ホール
指揮はトレバー・ピノック。抑制の利いた曲づくりに一流の演奏家たちが十二分に応え、大きな音ではないが、垂直無限遠に届く音が力強く響いた。デタラメな今の日本に、Dona nobis pacem を聴くことの意味を考えさせられる。何かにプロテストし声を上げる時には、必ずしも大声でなくて良い。
ロ短調ミサ曲の解説には判で押したように「ルター派プロテスタントのバッハが何故カトリックのミサ典礼曲を作曲したか、常に議論の的になっている。」とある。鼻糞のような小さい話だ。バッハは、音の物理学的特性を数学的構成によって最大限に発揮するよう作曲したのであって「18世紀ドイツのルター派プロテスタント」という小さい枠内で作業していたのではない。(要出典)カトリックだろうがルター派であろうが、ソロモンだろうがスレイマンだろうが、たとえ哀れな日本人だろうが、神は唯一である。(要出典)その唯一神が与えたもう法則にしたがうこと、これが創造行為の本質でなくて何だ。(要出典)
また怒りがこみ上げて来た。(要反省)
キリスト教徒として生まれたシナンがモスクを設計し、プロテスタントのバッハがミサ曲を作曲する。どちらも名作だ。極めて示唆的である。
2015年7月11日土曜日