『狂童女の戀』あるいは音声中心主義の復権

 


舞台『狂童女の戀』を体験し、ふとアレキサンドリアのことを想う。ヘレニズム期のアレキサンドリア。


学芸の殿堂・ムセイオンをかの地に創設したのはギリシャ人の救済者=プトレマイオス1世(BC367-282)だった。ムセイオンとはムーサ(女神)のいるところと云う程の意味で、ミュージアムの語源でもあるが、現在のミュージアムとはだいぶ様子が異なる。ムーサ9柱の担当分野は次のごとし。


カリオペー/叙事詩、クレイオー/歴史、エウテルペー/抒情詩    、タレイア /喜劇・牧歌、メルポメネー/悲劇・挽歌、テルプシコラー/合唱・舞踊、エラトー/独唱歌・恋愛詩、ポリュムニアー/讃歌・物語、ウーラニアー/天文                


建築、彫刻、絵画など、現在ではミュージアムの常連である視覚芸術が全く含まれていないことがすぐに分かる。この時期、視覚芸術はまだ生まれる気配も無い。


ムーサが司る歌、詩、歴史。当時は全て口頭伝承によるものだった。ムセイオンの施設の一つ=大図書館には貴重なテキストを記したパピルスや羊皮紙が大量にあったろうが、これも黙読するものではなく周囲の人を強制的に巻き込む音読が基本。デリダの云う「音声中心主義」の時代である。学芸は、音を聴き記憶することであった。視覚がその影響力を増強していく歴史は、音声が弱体化し同時に記憶力が失われて行く過程でもある。視覚芸術/偶像崇拝を厳しく排除するムスリムの多くが、クルアーン全編を暗唱できることと無関係ではない。そもそも9柱の娘を生んだ母親ムネモシュネは、記憶を司る女神とされている。


『狂童女の戀』は不可視の音により構造される。坂本長利の朗読、淡野弓子の歌、武久源造のピアノ。音の伽藍の中に傀儡子・黒谷都の操る『狂童女=ユトロ』が巫女として降臨し、視線を一身に受けつつ視るものの遠い記憶を召還する。ユトロは記憶の宿る依り代と化す。


舞台を観る前に「人類は古今東西に比類無き空前の舞台を初めて目撃することになるのではないか」と予想した。だが上演中は、既に自分の中にある何かを思い出そうとしていたようだ。体験した事、あるいは追体験した事の中から、記憶の断片が流れ出てくる。それは夕暮れ時の匂いや音、祖母や父が好きだった干し柿の味、母に手を引かれて歩いた無舗装のでこぼこ道、、、目の前に見えるから思い出すのではない。依り代の動きと聞こえてくる音が記憶を喚起しているとしか言い様が無い。普段忘却の彼方にあるものが次々と甦る。『狂童女=ユトロ』は眠っていた記憶を起動させるシャーマンとして機能しているらしい。複数の遠いイメージが一つの舞台の上で交差する。視覚と無縁、盲目の武久源造が音の伽藍を支えていたことも決定的だったろう。こんなことは初めてだ。


『狂童女の戀』は「音声中心主義」の復権を予感させてくれた。何も無いアレキサンドリアに行く理由ができたと言えるのか、どうか。

 

2015年5月9日土曜日

 
 

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