奈義巡礼 4
奈義巡礼 4
奈義町現代美術館が永久展示している3作品は、凄みを増していた。
太陽:アラカワ+ギンズの『遍在の場・奈義の龍安寺・心』は傾いた螺旋階段への入口がある前室壁面にびっしりと町民の顔写真を貼っているのだが、開館当時は4面ある壁の1面のみが写真で覆われていたはずだ。その顔写真仕上が前室全面=4面全ての壁を覆い尽くしていた。円筒形内部の壁面両側に貼付いた龍安寺の石庭は、最近部分的な補修をしたらしく、20年前と変わらぬ佇まいを維持している。思い出深い作品ではあるが、何回見ても落ち着かない。計画中何度も、荒川さんから永遠を見つめるような眼差しでこれから創ろうとしている作品の説明を受けたのだが、この作品実は何のことだかさっぱり分からなかった。今回、家に帰ってから、開館時に作った美術館のカタログを紐解いて、アラカワ+ギンズの書いた作品解説を再読してみても謎は深まるばかり。本人に訊こうとしても2人とも他界してしまった。ただ、訊けたとしても相変わらず分からなかっただろう。結局彼らは「無限遠の理解不能」をコンセプトに作品を創り続けていたんじゃないか。その姿勢がアーティストのありうべき生き方だとすれば、彼らの制作態度は極めて分かり易いのではないか、などと屈折した考えが滲み出てくる程に理解不能である。
月:岡崎和郎の『補遺の庭—休息のためにHISASHIとベンチが与えられたとせよ』は好きな作品だ。理解/不能を超越している。アラカワの龍安寺より、こちらの方が龍安寺の石庭に近いんじゃないかな。三和土、漆喰壁、杉板天井、庵治石のベンチ、そしてHISASHI。全ての要素が決定的な位置関係で納まっていて、緊張感が張りつめている。漆喰に白さが増して空気が澄んでいる感じ。この部屋で発する音は、鳴き龍的な予想外の反響で空気を切り裂き、そのこともこの空間の面白みを増している。床の三和土はところどころ擦れて削れているところがあるものの、それは多くの人がここを訪ねた証しでもあろう。神戸の震災を経験しているにも拘らず壁の漆喰は目立ったクラックも入っておらず、おまけに床に近い部分も純白を維持している。「子供が壁を蹴ったりして汚れるんじゃないですか?」館長の岸本さんに訊くと、汚れを見つけたら消しゴムで丁寧に消しているとのこと。頭が下がります。名匠・和泉正敏が削った、弧を描く庵治石のベンチに座って正面にHISASHIを見る。—休息のために—の筈だが、現場での様々なことが猛スピードで、あるいは走馬灯のように思い出されて休まるどころではない。心拍数が高まる。
大地:宮脇愛子の『うつろひ』は屋外の池の中から室内へと連続する作品だ。屋外と室内の、時間による変化の違いが、作品に深みを与えていると感じる。20年間、風雨にさらされ続けて風格の出た=汚れた屋外のコンクリート部分を背景にすると、『うつろひ』に浮かぶ光は、竣工直後に比べよりくっきりと見える。屋外、池の脇には那岐山麓から伐採された杉の塊で作ったベンチが置かれている。それが経年で暗く変色し、年輪が浮き出てきて、古い社寺建築の肌触りを想起させる。それら屋外の要素が室内の竣工直後と同じ姿を維持している『うつろひ』とガラス面を通して鋭く対峙し、映り込み、合体して、新しい作品として、刻一刻生まれ変わっている。
奈義町の3作品は永久展示ではあるものの、それぞれ時と共に新しい表情を増し加えていき、変化を続けている。作者は死んだとしても、作品は永久に生きる。驚くべきことだ。
2015年11月22日日曜日