奈義巡礼 2

 


美術館構想の起点まで振返って見る。この美術館はバブル末期1988年、竹下内閣の「ふるさと創生1億円事業」がきっかけだった。


現在の館長、岸本さんの話。


▶1988年に「書の町づくり構想」が持ち上がりました。書道によって町をつくっていこうというものだったんですが、それ以前から「日本現代書道巨匠展」を毎年行なっていました。けれど、習字だけでは美術館として弱いという理由で、なんでも展示ができて、なんでも企画ができる形のいわゆる町立美術館を作ってっていこうというものに発展していきました。▶美術館がどういうものか、当時岡山大学に太田将勝さんといわれる富山近代美術館で主任学芸員をされていた方がいらっしゃって、その方にお話をお聞きしたところ、これからの美術館というのは有名な建築家にお願いして作れば、沢山人が来るからと言われ、それで何人か候補が挙がったらしいです。磯崎さんとか、黒川さん、安藤さんなどが候補に挙がったんですが、太田将勝さんは「オマージュ瀧口修造展」を企画された方で、宮脇愛子さんと面識があったので「磯崎新という建築家がいらっしゃるけどその人の奥さんとコンタクトとってみよう」という話になり、太田さんが磯崎さんと直接コンタクトをとって下さった。最初は磯崎さんも奈義町という名を聞いたことがないなど、お断りされていたらしいんですが、町長や太田さんの説得があり、実際現場を見てみようかということになり、1991年に直接来られました。▶で、磯崎さんは気に入られて、非常にロケーションも良かったということで、「ちょっと僕に時間を与えて欲しい」ということで、磯崎さんがその次に提案されたのは、「今までの町立の普通の美術館では話題性もないし、こんな辺鄙なところでは人は来ませんよ」「出来るんだったら100%に近い形でプロデュースします。もしそれがだめだったら、この話は終りにしましょう」という感じだったんだろうと思うんです。それで、このロケーションを見て、それに合わせて今の美術館を考えられたということです。▶その時ちょうど磯崎さんの建築展がロサンゼルス現代美術館を中心に巡回し、荒川修作さんの「見る者が作られる場」という展覧会が国立近代美術館を中心に巡回していたこともあり、町の人たちを説得する上では有効だったんではないでしょうか。磯崎さん自身も従来型の美術館は沢山あるから、奈義に来なければ体験できないもの、それを提案されたんだと思います。


いわゆるサイトスペシフィックな美術館、日本初の提案ということだ。


奈義町の町長、助役、町議会議長をはじめ、重鎮の方々が初めて磯崎アトリエを訪ねてくださった時の様子を良く覚えている。サイトスペシフィックな「第3世代の美術館」構想を磯崎さんが丁寧に説明して、御一行の半数は深く頷きながら聴いていると思ったが、よく見たら舟を漕ぎながら寝ているのであった。


(つづく)

 

2015年11月10日火曜日

 
 

▶

◀