王墓
王墓
「♪ぼくはぁ~そこにはぁ~いません、、、」かとうろ覚えでいたら、ほんとは「♪そこにぃ~わたしはぁ~いません、、、」ですって。たしかに、この歌の冒頭は一人称「♪わたしのぉ〜おはかのぉ〜ま〜えでぇ〜」でした。訂正します。
王朝期のエジプトでは、ファラオの墓は埋葬直後から盗掘にあっていた。新王国第18王朝のトトメス1世時代(BC1500ぐらい)からは、ルクソール西岸「王家の谷」に王墓が造られるようになったが、ここの王墓もほとんど全て盗掘を受けた。被害が目に余るようになって、神官団は諸王のミイラを本来の墓から出して、安全と思われる場所に移送する。
3000年以上経ち19世紀になって、ルクソール西岸の2カ所から、大量のミイラが見つかった。1カ所目のインハピの墓(デル・エル・バハリ崖下ハトシェプスト女王葬祭殿脇)からは約30体、もう1カ所、王家の谷にあるアメンヘテプ2世墓からも10体以上の王や王妃のミイラがまとまって発見された。
ファラオ達は埋葬された後も暴かれ、移送され、また隠されて多忙だった。彼らは3000年の眠りからゆり起こされた後、今はカイロ博物館の「ミイラ部屋」に一緒に並べられている。また、例外的に盗掘に逢わなかったツタンカーメンのミイラは、カイロでDNA鑑定やCTスキャンを受けた後、ルクソール「王家の谷」の本来の墓(62号墓)に戻り、アクリルの箱の中で横たわって、展示品として毎日働き続けている。
「♪眠ってなんかぁ~いません」
2013年4月3日水曜日