ロンドン五輪

 


4年に一度、つい国粋主義者になってしまう。


サッカーや体操、柔道等、地上でユニフォームを着てやる競技は、ぼーっとテレビを見ていても、ウルトラマンなどの怪獣ものと同様、どちらが「敵」でどちらが「味方」なのかハッキリわかる。無意識のうちに自分の内なる国粋主義が炸裂してアドレナリンが大量噴出する。それらに比べ競泳は、各選手ユニフォームも体つきも似ている上に、ゴーグル掛けて顔がよくわからないので、敵/味方、善玉/悪玉入り乱れる世界頂点のバトルロワイヤルに見とれるしかない。


ちゃんと国ごとの区別がつくようないでたちにしてくれないと、応援しにくいのだ。


だが外見で区別がついたとしても、例えば父母の国籍が異なり、どちらの国に対しても等しく親愛の情を持つ選手の場合、話はより複雑になる。


オリンピックを自国に招致したい人々が、国粋主義/純血主義であるのは当然である。主義主張は単純化し短く伝えるのが愚衆を操作するのに効果的だ。我々は建築家志望だったオーストリア生まれのアドルフのことを忘れてはいない。


あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。

(コリントⅠ 9:24〜26)

 

2012年8月3日金曜日

 
 

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