バベルの塔

 


あと一年後の完全地デジ化にあわせて、テレビではスカイツリーの特集を組んでいる。634mの高さは、建設技術にとって未知の領域だろう。工事にかかわる全ての人が仕事に誇りを持っていることが番組の画面から伝わってくる。


この夏日曜学校のキャンプでは、高層建築の先祖、バベルの塔をテーマにして学ぶことになった。


創世記11章の話は次のごとく。洪水で生き残ったノアの子孫のうちシンアルの地に住み着いたものたちは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言い、れんがとアスファルトを使い塔をつくろうとしたが、神が言葉を混乱(バラル)させ彼らは町の建設をやめた。そして神はそこから彼らを全地に散らされた。


バベルの塔の伝えるものは「言葉」とも見える。言葉は、人間の小さな営みを誇ることに使われるべきではなく、神を賛美するために与えられたものだからだ。


ペンテコステの記事を思い出す。


「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1−4)


言葉が/創っているものが、自らを誇るためのものに成り下がっていないだろうか。建築に関わる我々も常に自戒せねばなるまい。

 

2010年7月25日日曜日

 
 

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