昏迷の時代に 2

 


形体的コンセプトのみを考え、建築が存在する時空の尺度を間違えると、設計者の彫塑的遊びにしかならない事実を我々は見続けてきた。建築は、人間的尺度の時間/空間に有るもので、宇宙/素粒子的な極大極小の世界や、光速度に近いところでの時空間理論に馴染むものではない。


人間は、自分のスケールに合った有限の時空間内のものしか知覚出来ない。普段歩くスピード、仮にどんなに速い飛行機に乗ったとしても、その程度の速度では相対性理論の言う空間の歪みは認知できない。だからといって深刻な事態になるわけでもないだろう。アインシュタインの子供である我々も、いまだにニュートン力学の世界に生きている。


音の世界にも類似することがある。


音が波長や振動数を持つ波であることを「発見した」のはピタゴラスだ。ピタゴラス以来、波の一形態としての音について研究をすると、音楽が原理的に内包する不可能性ともいえる性質が明らかになってきた。(これについては長くなるのでここでは触れない)だが、「われわれの聴覚能力は、たとえ音程がごくわずかずれていても、それを純正なものとして(補正して)聞き取る。(平均律に調律されたピアノの演奏など。)われわれはほかならぬこの能力によって、有限なるもののうちにとどまり続けるほかない鍵盤楽器の不器用さにもかかわらず、「神の耳」に音楽がどのように響いているのかを少なくとも予感することができる。」(ルドルフ・タシュナー)のだ。


つづく

 

2010年7月23日金曜日

 
 

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