奈義町1969
奈義町1969
岡山県の奈義町は、磯崎さんのところで現代美術館を担当した懐かしい場所だ。
鳥取県との県境、那岐山の麓に広がる日本原と呼ばれる高地には自衛隊の駐屯地/演習場があり、国費がジャンジャン投入されていたようだった。関わっていた当時は人口7000人程の小さな自治体だったのだが、小学校の校舎は2重サッシュ、道路は戦車走行可能仕様の立派な舗装になっている。
今日『右翼の戦後史』(安田浩一・講談社現代新書 2018)の書評を一水会の鈴木邦夫が書いているのを目にしたら、そこに奈義町のことが書いてあったので思わず引き込まれる。
奈義町は1969年の町議会に於いて「大日本帝国憲法復原決議」を議決している。賛成反対は10対7。この時は町議・延原芳太郎(-1990 美術館工事の時は存命中だった)が町議会に対して強い影響力を行使していたという。延原は岡山市に本部を持つ右翼団体の幹部、そして熱心な「生長の家」信者だった。大日本帝国憲法の復原は「生長の家」の創始者である谷口雅春の持論でもあった。
この本から鈴木が引用している部分をまたびきする。
・・・69年に奈義町で決議された「大日本帝国憲法復原決議」は、その後、各地に飛び火することはなかった。世間的には「田舎町の椿事」として認識されるだけだった。だが、決議を実質的に後押しした生長の家は、翌70年、県庁所在地の岡山市で「正統憲法復原改正全国大会」を開催。教祖の谷口も同地を訪ね、参加者を前に講演を行なった。その記録は後に「諸悪の因 現憲法」(日本教文社)として出版されている。・・・この時期から日本の右派勢力は、憲法改正を最大の政治課題に掲げるようになる。いま「椿事」を笑うことができないのは、大日本帝国憲法の復原、すなわち現憲法の破棄を大真面目に訴える者たち(なかには政治家もいる)がそれなりの影響力を持った立場にあるからだ。少なくとも憲法はもはや「改正」が目前にある。・・・
すぐにでもこの本を手に入れたいが、砂漠のこの街には書店が無い。Amazonの配達区域外、おまけに住所も無い。
2018年7月25日水曜日