時間

 


金融業の知人とお話。


「数字が大好き、音楽は聴かない」という彼はしかし小数点以下は嫌いなのだそうだ。変則的ピタゴラス学派だろうか?だがしかし、音楽を聴こうとしないところはピタゴラス学派とも違う。時間をかけて音楽を最初から最後まで味わうのが面倒というのがその理由だった。


数字は瞬間的な判断とも良く馴染む媒体である。0と1の組み合わせで電気的に瞬時に結果の出る世界に慣れ、その居心地がいいのか。0と1は○か×かでもある。○か×かで受験をくぐり抜け、優秀な成績で最高学府を卒業し、数字を道具にする世界で生きる人の典型とも見える。実際、受験や金融業の場合、○と×の間の無限のグラデーションに気をとられている場合ではないだろう。数字を速読し、瞬時に判断を下す。文学的な要素が介入する余地はない。


だが、彼もその年齢まで生きているのならば、その年齢だけの物理的な時間を過ごしてきた。生まれ、瞬間的に現在の自分になっているという人は一人もいない。乳を飲まされ、おしめを交換してもらい、食事をしながら人はだんだん大きくなる。そして寝ることに多くの時間を費やす。その時間の堆積が現在の自分を形づくっている。花も開花するまでには時間がかかる。偉大なワインもその味のピークを迎えるためには時間を要する。マタイ受難曲を早回しにし短時間で全曲聴いたとしても何も残らないだろう。


音楽を聴くことだけでなく、絵画、映画や建築を創ったり/見たり、文学を書くこと/読むこと、あるいは瞑想など、人間の精神活動に関わることは全て、時間の進行速度とテンポを合わせ歩むことに他ならない。地球は一日一回自転し、一年かけて太陽のまわりを一回公転する。速く感じるか遅く感じるかは人それぞれではあるが、一日、一年は全ての人間に平等である。

 

2012年4月3日火曜日

 
 

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