吉田秀和頌
吉田秀和頌
ある楽曲を初めて聴く時に演奏家が誰かというのは、その後のその曲の聴き方に決定的な影響を及ぼすことになる。
レコードやCDの場合、気に入ると何度も繰り返し聴くことになり、微細なアーティキュレーションまで身体化するだろう。たまたま同じ曲を別の演奏家で聴くことになったとしても、最初に染み込んだ曲の影響は強烈で、演奏の善し悪しとは別次元で、新しく聴く演奏に馴染むのにはある種の抵抗がある。何ものにも囚われない自由な精神などなかなか身につくものではない。
CDを聴き「ああ良い曲だ」などと感じ入る時は、大概何度も繰り返し聴いた演奏のことだ。
入手したばかりのiPhoneに聴き慣れた寺神戸さん演奏のコレッリを入れて、歩きながら聴いてみた。「ああ良い曲、良い演奏だ」と思う。音楽評論家にならなくて良かった。
吉田秀和が紹介してくれたおかげで、はじめて聴く多くの曲で間違えること無く名演奏に向かうことが出来た。幸せと言わず何と言おう。
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建築デザインにはオリジナルと言えるものはほとんどなく、大多数は過去の遺産を切り貼りする再構成された複製である。コピーのネタが誰もが知る近い過去の場合、盗作だとかコピーライトだとか恥ずかしくないのかだとか大騒ぎになった挙句、すぐに消費され景色に溶け込み忘れ去られる。ネタが数百年、数千年前の古い過去の場合はポストモダンなどという様式もどきに昇格し、アカデミズムも分かった顔をして批評の対象に持ち上げる。長年見慣れたものは、聴き慣れたものと同様受け入れ易いのだろう。
近現代の建築で、本当にオリジナルと言って良いと思うのは、クセナキス(+コルビュジエ)のフィリップス館。彼の音楽もまたそうだったに違いないが、それを評価する軸を持たない。
2012年6月3日日曜日